高知での苦い思い出



 昨日の3月24日(火)に、たまたま車で移動中のラジオ番組から流れるニュースを何気なく聞いていたら、「 修学旅行で中国・上海を訪れていた高知学芸高校の生徒27人と教員1人が死亡した上海列車事故から24日で32年です。高校では慰霊式が行われ、遺族などが祈りを捧げました」というニュースでした。

 事故の少し後に仕事で高知県に行くことがあり、確か高知市内の旅館に泊まり夜もその旅館で宴会をしました。業界親睦団体か何かの視察旅行のようなもので、我々の業界に関係ある会社や工場を視察し、その後の夜の宴会でお互いの親睦を深めようという、当時はバブル真っ只中で視察という名目を立ててはいるものの、要は息抜きの大名旅行が大流行の時でした。勿論、日本中がバブルに浮かれているので、夜の宴会もコンパニオンや綺麗どころを大勢呼んで派手にやっていました。

 その頃の宴会の主流と言えばカラオケ。今でもカラオケで歌を歌う人は多いと思いますが、当時はカラオケが流行りだした始まりのころでしたので、マイクの奪い合いで我先に歌を歌いたいという人が大勢いて、宴と言えば紅白歌合戦のような賑わいでもありました。なのでカラオケで歌いたい人がいつまでも歌いたくて、宴を閉めるのに閉められなかったといった事がよくありました。

 その当時の私は若手でしたので、業界の宴会などでは景気づけに最初にマイクを持って元気よく歌おう!!後のみんなが歌いやすいように!!というようなノリで、率先して切り込み隊長的なこともやっていました。

 それでその高知市内の旅館での宴会の話。乾杯も終わってそろそろ歌いたい!!というおじさんたちのソワソワとした雰囲気を察知したワタシ。「誰か最初に歌ってくれ!!」とでも言いたそうなおじさんたちの目線、視線、気持ちを重く受け止めて私が景気づけに歌いましょう!!ということで歌ったその曲は、

 「無錫旅情」

 おじさんたちの拍手と早く俺たちにも歌わせろ!という宴席からの冷たい視線を浴びながら、私の切り込み隊長としての役目は無事終えることになったのでした。

 ところが私が席に戻ってコンパニオンからお疲れさまでした!ってことでビールをコップに注いでもらいました。そしてこの言葉をもらうことになったのです。それは・・・

 

アバター
コンパニオン
高知にきて無錫旅情を歌うとは・・・

アバター
コンパニオン
よう歌えたもんやな
アバター
え、なんで??
アバター
コンパニオン
無錫旅情の歌詞知ってる??
アバター
覚えてないけど、歌う時は歌詞を見ながら歌ったよ!!
アバター
コンパニオン
上海蘇州と汽車に乗り・・・
アバター
コンパニオン
列車事故があった歌やで・・・
アバター
ほんまや~ゴメン

 というようなやり取りでした。私もコンパニオンから言われるまでは全く気づきませんでした。宴を盛り上げようと選択した歌が無錫旅情だったのですが、修学旅行の事故直後でしたので気遣いや配慮が足らなかったと今となって反省しています。コンパニオンも本気で言ったのではなく、宴の席ということを十分踏まえ、しかもきつく言ったわけでもなく柔らかくそっと指摘してくれたのですが、その時の私は正直「シマッタ」と思いましたね。宴は盛り上がって賑やかな状況で、誰も私が歌った無錫旅情イコール列車事故を結びつけている人はいないけど、私の心の中は申し訳なかったという気持ちでいっぱいでした。

 昨年、久しぶりに高知県に友人たちと旅行に行ってきました。桂浜をはじめ龍河洞やにこ淵は、昔と変わらない大自然を懐かしく感じました。はりまや橋も懐かしかったな~。。。
 高知という言葉を耳にすると私はこの出来事をつい思い出してしまいます。昨日のラジオのニュースでもう32年も前になるのか、月日の流れは速いものだなとつくづく自分が年齢を重ねてきたことを実感した次第です。

高知県吾川郡いの町にある「にこ淵」。自然が生んだ神秘!仁淀ブルーを満喫。